あくまで現時点のわたしとしての意見だけど、人生において大事なことがあるとすれば、それは「自分を生きる」ことに尽きるんじゃないかと考えている。
わたしの言う、「自分を生きる」というのは、自分が魂から望んでいることをしっかりと感じ取り、その感覚を意識的に意図し(方向付けし)、現実化していくということ。
ここでやっかいなのが、多くの人が「自分が魂から望んでいること」を感じ取ることができなくなっていること、もしくは感じとっても聞かないふりをし続けてしまって、もはや何が本心だか見えなくなっていること。また、社会や一般常識やらにいつのまにか主導権を渡してしまっていて、主導権を他者に渡してしまっていることさえ気づかずに、本当は自分の望みではなく周囲の望みだったりするものを自分の望みと勘違いしていることも多い。
まずは、そこをワークして、自分の(魂の)望みを感じ取れるようになることが第一歩と思う。感じ取れるようになったら、一瞬一瞬、意図を明確にする(何を望んでいるのか意識的に方向付けする)というのが次の一歩。
意図を明確にしないでいると、目の前にくる流れに翻弄されるばかり、ということが起こる。翻弄されると目の前にはやらなきゃいけないことがいろいろ出てくるから何かをやった気にはなるけれど、魂の望みを満たしたわけじゃないから、行動した分量にしては満足感が少ない。
たとえ人から見てものすごいことを成し遂げていたとしても満足感が少ないとしたら、それは自分を生きていない。そこから抜け出すには、常に自分の望みを感じ取り、明確に意図すること。しかも、自分の望みも意図も、毎瞬毎瞬というくらいの細かさで定めるくらいでいい。とはいってもそれは難しいので、少なくとも1日の中で一区切りをいくつかもつけるといい。会社に行くまで、行ってから次の会議まで、この原稿を書く間などなど。誰かに会う予定があるならその人との時間を一区切りにしてどうしたいか意図する。
というようなことを、わたしはここ1年半でいやというほど学んで、人生を意図的に創造することの楽しさに目覚めてきているのだけど、精神世界の勉強をすればするほど、サーフィンはとってもわかりやすい例題になるなぁと感じる。
たとえば今日のわたし。大きい、いい波が来ていて、ラインナップは上級者ばかりという状況の中に入るなり、一気に自分を見失ってしまった。入る前にどの波をどう乗るとイメージしていたはずなのに、雰囲気に飲まれて、当初の意図はぶっとんだ。
そんなんだから、大きなセットがきたら、「あ、あれ乗ろうかな」とフラフラと沖へ行き、でも、もちろんピークにいないから回ってくるわけなく、「じゃあやっぱりミドルセクションで割れる波に乗ろうかな」とフラフラとインサイドへ行き、でもしばらく待っても来ないと、「はて、どこで波待ちしようか」とまたフラフラ…。
それを繰り返してなんと1時間1本も乗れずにいた…そこでようやく「あ、自分を見失っている」と気づいた。気づいたので、深呼吸して、自分と対話した。
「はて、今日のサーフセッションでのわたしの望みは何か」
自分から聞こえてきた声は、「大きい波に乗らなくていい。小さくていい。数に乗りたい」。それならば人の少ないインサイドで小波をたくさん狙えばいいと意図。そこからようやく波に乗れるようになった。
波っていうのは自然のもので、わたしたちの力で起こすことはできない。だから、サーフィンって自然任せみたいなところはもちろんあるんだけど、でも、どういう波が来たら乗るってイメージ(意図)がないとそういう波が来たときに体がそのように動かない。それどころか今日のわたしのように波待ちの場所が定まらないし、だからラインナップの順番にも入れてもらえないし、ということが起こる。
これはきっと人生と同じで、人生にも流れというものがあって、その流れそのものを起こすのはおそらくわたしたち人間を超えた力。だけど、どういう流れを望んでいて、どういう流れが来たら乗るという準備を人間側がしていないと、いざその流れがきたときに慌てて乗り損ねたり、あるいはその流れより前に来た流れに"とりあえず"乗っちゃって、後から「あっちがよかったかも〜」ってなったりする。
ま、もちろん、それも含めて人生で、何が良い、悪いではないのだけど。今日は自分のこの1年半の「望みを確認して意図して創造する」のプチ例題にぴったりのサーフィンセッションとなりました。意図を明確にしてからは面白いほど乗れたよ。同じメンツ、同じ海の中なのにね。